私が「やさしさと渋さが調和した器」をつくる理由
はじめに
私は普段、アイボリー調のやわらかな色合いを基調に、縁へ黒茶や青の装飾を施した器を制作しています。
自分の作品について言葉にするとき、よく使っているのが、
「やさしさと渋さが調和した器」
という表現です。
最初から、この言葉を掲げて器を作り始めたわけではありません。
自分が好きだと思う色や形を選び、作っては使い、少し違うと思えばまた形を変える。
そんなことを繰り返しているうちに、少しずつ今の作風になっていきました。
振り返ってみると、そこには私自身が大切にしている考え方が、自然と表れているように思います。
今回は少し、私がどのようなことを考えながら器を作っているのか、お話ししてみたいと思います。
陶器に感じた、あたたかさ
私が陶器に惹かれた理由のひとつに、手に取ったときの「あたたかさ」があります。
もちろん、実際の温度の話ではありません。
本来なら硬く、冷たいはずの器なのに、手の中に収めるとなぜかやわらかく、あたたかく感じる。
土という素材が持つ質感なのか、作った人の手の跡が残っているからなのか。
その感覚をうまく説明することは難しいのですが、器に触れ始めた頃の私は、そこに陶器の面白さを感じました。
そして自分が器を作るようになってからも、この「あたたかさ」はずっと大切にしています。
やさしいだけでは、少し物足りない
私の器は、クリームやアイボリーに近い色を基調としています。
やわらかく、料理にも馴染みやすい色です。
でも、それだけでは自分の中では少し物足りませんでした。
そこで器の縁に、黒茶や青の装飾を加えています。
やわらかなアイボリーの中に、少し渋く、金属的な表情が入る。
私は、この二つが一つの器の中にある状態が好きです。
やさしいだけでもない。
渋いだけでもない。
どちらか一方を強く主張するのではなく、それぞれが自然に同居している。
そこから生まれたのが、「やさしさと渋さが調和した器」という言葉でした。
私が大切にしている「中庸」という考え方
私は昔から、どちらか一方へ大きく振り切るより、どちらにも考え方の違いや良し悪しがあると考えてきました。様々な要素を自分のなかに取り込むことで、吟味し、その間にあるものに惹かれたり、「間である」ことが良いと考えるようなところがありました。
和か洋か。
新しいか古いか。
やさしいか渋いか。
必ずしも、どちらか一方に決めなくてもいいのではないかと思っています。
私が大切にしている「中庸」という考え方も、そうしたところにつながっています。
中庸(ちゅうよう)とは、どちらにも偏らず、過不足がなく調和がとれている状態や考え方のことです。
https://kotobank.jp/word/中庸-97476
彼の孔子も論語の中で中庸を語っていますが、その中立や中性、調和が取れているといった状態、姿勢が私は好きなのです。
ただ、器を手に取る方に「中庸」を意識して使ってほしいわけではありません。
それはあくまで、私がものを作るときのひとつの軸です。
出来上がった器は、和食にも洋食にも使えて、朝にも夜にも自然に食卓へ出せる。
そんな、使う人の生活にすっと馴染むものになってくれれば、それでいいと思っています。
「ちょうどよさ」を探し続ける
私が器を作るとき、見た目と同じくらい大切にしているのが、使ったときの感覚です。
器の厚み。
重さ。
手に持ったときの収まり。
口をつけたときの感触。
そして料理を盛り付けたときの見え方。
例えば、器だけを手に取ったときには少し軽く感じても、料理を盛るとちょうどよい重さになることがあります。
だから私は、日常使いの器をできるだけ薄く、軽く仕上げています。
形についても、一度決めたものをずっと作り続けるわけではありません。
自分で使って気づくこともあれば、お客様との会話から気づくこともあります。
「もう少しここがこうだったら使いやすいかもしれない」
そう思えば、少しずつ形を変えていきます。
私にとって器づくりは、完成形を決めてそこへ到達することではなく、その時々で自分が納得できる「ちょうどよさ」を探し続けることなのかもしれません。
料理が盛られて、初めて器になる
私は作品として眺める器も好きですが、自分が作るものについては、できれば日常の中で使ってもらいたいと思っています。
料理を盛り、手に持ち、洗って、また次の日に使う。
そうやって生活の中に入っていくことが、私の器にとって自然な姿です。
だから、器だけが強く主張しすぎないことも大切にしています。
食卓では料理が主役です。
器はその料理を受け止めながら、ほんの少しだけ食卓の空気を豊かにする。
ふと手に取ったときに、
「なんとなくこれが使いやすい」
と思ってもらえる。
そんな存在であれたら嬉しいと思っています。
器には、自分自身が表れる
器を作り続けていると、不思議なことに、自分が大切にしているものが作品にも表れてくるように感じます。
私は大学や大学院で心理学を学び、「自分らしさ」について考えていた時期がありました。
そして陶芸家になった今も、形は違いますが、結局似たようなことを考えているのかもしれません。
自分は何を美しいと思うのか。
何を心地よいと思うのか。
なぜ、この色なのか。
なぜ、この形なのか。
一つひとつ考えながら作っていくと、器には少しずつその人自身が表れていきます。
アイボリーのやわらかさと、黒茶や青の渋さ。
どちらにも偏らず、その間にあるものを探すこと。
今の私の器は、そうした自分自身の感覚を形にしたものなのだと思います。
これからも、変わり続ける器
今の作風が、10年後もまったく同じかと言われれば、おそらく違うと思います。
「他人から見た自分」にフォーカスし、それが形として表せたものが今の作風だと考えています。心理学を学んだ人であれば、ピンと来る表現かもしれませんね笑。
優しい、クールそう、知的、渋い、物腰柔らかい、神経質そう、我が強い、細かい、etc…
過去に私について持たれた他人の感想、感覚を元に作風が構成されていったように思います。
新しい技法を知ったり、新しい器に出会ったり、生活が変わったりすれば、自分が良いと思うものも少しずつ変わっていくでしょう。
私は、それでいいと思っています。
完成したと思ってしまえば、そこで探すことをやめてしまうからです。
今の自分が納得できるものを作る。
そして、また少し先で見直してみる。
その繰り返しの中で、自分の器も少しずつ成長していけばいい。
これからも「やさしさと渋さが調和した器」という軸を大切にしながら、その時々の自分にとっての「ちょうどよさ」を探し続けていきたいと思っています。
今後、「私から見た自分」をテーマにした作風に挑戦してみたいものです。

